恋心ミルフィーユ

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ツイッターじゃ吐ききれない妄言をまとめていくよ

断絶の壁 -当事者の私から見たLGBT法案と、トイレ問題について-

どうもこんにちは恋心ミルフィーユです。今日も可愛いね!

という自画自賛はおいておいて、最近は本当に嫌なことが多い!LGBT法案というものが話題にあがる度に、トイレ問題が出てくるたびに、心がめちゃくちゃになってしまってます。橋本愛さんの炎上とかもうさぁ、めっちゃしんどかった~。

この炎上は先月のものですが、「トランスジェンダーを差別するな!」「トイレも性自認を優先すべき!」みたいな言論は毎日のように見かけてしまいます。私はXジェンダーで所謂『当事者』という立場なのでこういう風に生の多様性が開かれていくこと自体は素晴らしいと思っているのですが、正直怖い!危険すぎる!今のままじゃ余計にトランスヘイトが溜まり、トランスジェンダーに対し向かい風になってしまう。

ということで、LGBT法案やトイレ問題について、私の目線から書いていきたいと思います。正直このことを語るのはめっちゃくちゃ難しい~~~!!ので書きたくなかったのしかなり沈黙を続けていたのですが*1、まとめていこう。

 

※今回の記事はあくまで私個人の意見であり、トランスジェンダー全体の総意ではありません。ご注意ください。

 

当事者は望んでいない

まず言いたいのですが、LGBT法案こと『性的指向又は性自認を理由とする差別の解消等の推進に関する法律案』は、女性用トイレや女湯を使っていいという法律ではないです。LGBT法案は簡単に言うと「学校や職場、就活において差別をするのはやめよう」という法律です。

おそらくこのことを知らない人は少なくないとは思います。なんなら当事者でも勘違いしている人は多いですし。そのせいで法案反対!みたいな意見をよく見かけたり、それが原因でより過激な意見が出てきたり、不安を感じる人がよく見受けられます。

 

ですが、当事者として言わせてください。法案の内容や世論云々ともかく

トランスジェンダー当事者(MtX及びMtF)は別に女性用トイレや女湯に入りたいとは思ってません!

私自身がMtXトランスジェンダーということでMtFの方の意見を代わりに言うのはおかしいですが、性自認を優先して施設利用をできることを好意的に考えている人はいません。我々は生きているだけで嫌というほど感じ、知っています。いかに自分が「普通」から外れていて、そのことで迷惑をかけているかを。迷惑をかけないように、奇異な目で見られないように、人の目を気にして生きているかを。

自分だけがよければそれでいい、他の人の権利を侵害してまで自分に都合のいい世界になってほしいなんて1ミリも思っていません。確かに不便や気持ちの面で辛い部分もあるけど温泉にはもう入れないことは自覚し受け入れているし、更衣室を使う施設は利用しない(健康診断では個室を用意してもらいました)。トイレも男子トイレには気持ち的にも見た目的にも入れないけど多目的トイレがある以上は「女子トイレに入れないことは差別だ」と思ったことはないです。

 

私自身は他人に極力迷惑をかけたくないし性加害を与える気持ちも無い。でも性別による区分が消えると、制度を悪用して自分の都合を押し付ける人も確実に存在する。そのような問題があり不安を感じる人がいる以上は、私としても身体性でなく性自認によってのみ区分することにはYESと言えません。

女子トイレや女性用車両が『シェルター』としての役割を担っている以上、今のまま議論が進んでいくことは恐怖でしかありません。トランスジェンダーを擁護するような言葉が女性の権利を侵害し、そのヘイトがトランスジェンダーに向く。「あなたのためを思って発言してるのよ!」という正義をかざして全員が不幸になっていく世論の暴走が、今後どうなっていくのかは私もわかりません…。が、良い方向にいく未来は今のところ見えません。

 

でもそれでも、本当に困っている人はいる

というのが私の意見ではあるのですが、世の中には女子トイレを使いたい人だって存在します。

女湯や更衣室は自身の選択で避けることはできますが、トイレは生理現象。行かなければいけないときは確実に存在する。私自身も近所の多目的トイレの場所はいざというときのために把握はしていますが、もし知らない土地で、近くのトイレが男女の区分しかなくて、そしてもう我慢できないときは、きっとどうするのでしょう?

もちろんそんな状況は限定的ですが、もし他の人なら?特に『埋没』して生きている方からしたらトイレの選択は死活問題です。

 

埋没、それは自身の身体の性を隠して社会に溶け込んでいる人のことを指します。

私自身はこんなブログを書いたり顔面も公開したりとインターネットでも実生活でも割とオープンに生きていますが、同僚にも友人にも誰にもほぼ知らせず、過去も今も全て隠し通して生きていきたい方も多くいます。

絶対に身体の性についてバレたくない。バレる要素が存在してはいけない。そのように隠して生きている方にとってトイレは『バレ』の要因になりかねません。第三の選択肢として多目的トイレが挙げられるけど、その『第三の選択肢を使う』ということ自体がバレを誘うようでは意味が無いです。

そんな方に対して「身体は男性なんだから女子トイレに入るな」と言えるのでしょうか?私は言えません…。女子トイレに入ることを肯定をするという意味ではありませんが、否定することも出来ません。

 

特に今、このような問題が話題にあがっていることで危機センサーが敏感になっている人が多いです。

「なんでこの人はトイレに行くことをためらっているんだろう」「一緒に女子トイレに入らないのはなんで?」そのような小さな疑問がバレに繋がってしまえば当事者にとっては今の生活を全て捨てなければいけないほどの苦しみに苛まれます。嘘をつくことの方が悪いと無責任に言う方もいるかもしれませんが、女性として過ごして、誰にも迷惑をかけず、穏やかに生きたいだけなのに、ただついているだけのことが罪になるのなら、それはとても悲しいことです。

性別とはかなり曖昧です。シス女性でも見た目が男性っぽいからと通報された人、そして通報を恐れて女子トイレに入れない方も存在します。適合手術をして身体が完全な女性になったけど戸籍性は男性のままの方もいます。逆に男性になったが戸籍上は女性の方もいます。見た目、戸籍、身体、実生活、それぞれで性別が違うなら、何が正解なのでしょうか。

 

大事なのは、理解すること

この問題、正解なんて無いです。色々と語ってきましたが、感じ方は人それぞれ。大切なことは正解を出すことではなく、考えることだと思います。

昨今LGBTトランスジェンダーという言葉が社会に浸透し始めてきていますが、言葉だけ浸透していてどこか他人事のような印象をもってしまいます。「私はよくわからないけど配慮する風潮だから配慮しよう」という気持ちで配慮することを選択している人も少なくないのではないでしょうか。

理解の伴ってない配慮は時として暴力になり得ます。特にトイレ問題はその「とりあえず配慮しよう」という風潮が生みだしてしまったある種の暴力であるかもしれません。『配慮=正義』という構造によって、『嫌=悪』というよう図が出来上がってしまう。身体性で区分することに合意することが『配慮できていない=悪』となってしまうことに罪悪感を覚えてしまう人もいると思います。だからその罪悪感を消すために、肯定してしまう人も。

是非考えてください。罪悪感を消すために慣れることは確かに楽ではありますが、大切なのは理解すること。どういう人が困っているのか、どういう人が苦しんでいるのか、どういう人が怒っているのか。男「だから」女「だから」性的少数者「だから」トランスジェンダー「だから」のような言葉で括らず、是非とも一人ひとりを見てもらいたいです。

 

トイレ問題に関しては、天下のTOTOさんも当事者を交えたうえで考察されています。オールジェンダーが使える多目的トイレの形についてや、既存のトイレについてなど。未来がどのような形になるのかはわかりませんが、誰も苦しまない形を追求してくれると私としては助かります。渋谷区の女子トイレ消失問題はさすがに尖りすぎですが…。

トランスジェンダーの在り方について肯定的な意見、否定的な意見、様々なものを目にすることはとても疲れますが、意見が出ること自体はとても嬉しいです。それだけ人の目に触れ考えさせられているということですからね。一番怖いのは取り上げられないこと。今までのように社会の影に押し込まれ、まるで存在しないように扱われることの方が、批判されるよりも怖いです。

今回の問題は確かにトランスジェンダーの立場がより悪くなりかねない逆風となっていますが、何が問題なのかをしっかりと受け止め考えていき、シスとトランスの間に生まれてしまっている壁が無くなってくれたらいいなぁと切に願っています。

 

まあ願っているだけじゃかなわないからこんな文を書いているんですけどね!

 

 

*1:けどこの人ふせったーには愚痴りまくってましたよ